からい大根
新しい年が来て、新しい生活が始まった。
ごく普通で、当たり前のように感じるけど、
一昨年のクリスマス頃には鬱を患い、会社を辞め、
私にはこの人しかいないと思っていた人と別れ、
生きてる意味ないんじゃないかって思った時もあった。
それから約1年が経って、環境は大きく変わってきている。
新しく働き始めた場所は、あと10回程の勤務で一旦お休みになる。
大好きだと思う場所だし、いい人たちばかりだけれど、同じことの繰り返しのように感じて、
最近は少し怠く感じてしまう。
ただ、昨日は仲の良い(と思っている)人からメッセージカードをもらった。
「一緒にシフトに入ると癒される、絶対にまた戻ってきてね」
といったような内容だった。
そんな言葉をもらえたことが、素直にとても嬉しくて、何回か小さく跳ねた。
手書きの字は、なんだか特別な感じがして、私は手書きで書かれたメモ書きや走り書き、学生の頃の授業中の手紙なんかもすべて捨てられずに取ってしまっている。
それは、その人が自分に割いてくれた時間であったり、その字からも、なんだかその人の温かさとかを感じることができるなあと思ってしまっているから。
どんなに小さなことでも、走り書きでも、私はその字と時間が限りなく愛おしく思う。
シフトの休憩仲の短い時間を使って、自分を思って書いてくれたことが、本当どうしようもなく嬉しかった。
更に言うなら、その人が書く
しっかりして角ばったところもあるけれど、それでいて柔らかい文字も、その人らしくて とても好きだった。
自分のことを、見てくれていて、言葉で伝えてくれることがどれだけ幸せかを感じた。
前の職場では味わったことのない経験だった。
家に帰ってからも、嬉しい気持ちは続いていた。
彼にもおいしい料理を食べて嬉しい気持ちになって欲しい、と思い、疲れていたけれど、不慣れな料理を懸命に取り組んだ。
彼が帰ってきて、テレビの前で仮眠をしている間に、料理がやっと完成した。
なんとか起きてもらい、一緒にゴールデンタイムのテレビを観ながら夕食を食べる時間が、何にも代え難く、幸せだと感じた。
「なにこれ、辛」
彼が話したのは、流れていたテレビの感想ではなく、大根の千切りのサラダの味だった。
私も同じものを食べていたが、そこまで辛いと感じなかった。
「こんなの食べれない」
そう言って、一口か二口食べただけの大根は、彼の手によって食卓の隅に避けられた。
心なしか、黒い皿に入ったみずみずしい大根も、しょんぼりして見えた。
私は、「食べ物を残してはいけない」ということを母からよく言われていた。
残したら残したで、◯◯も悲しんでいるよ、と言われた。
出してくれたものは、残しちゃいけないんだ、と思ったし、
大人になった今でも、なるべく残さないように食べるのが習慣づいている。
◯◯ "も" というのは、きっと作り手である母も悲しかったのだろう。
彼の実家では、たくさんの料理が出てきて、食べきれないなら残す、が主流だったようだ。
お腹がいっぱいになるように、と多めの量で作ってくれることに、愛情を感じる。
けれど、私は残してしまうことにやはり罪悪感を感じてしまう。
よく考えれば(考えなくても)、それは大根のせいだし、私が悪いとは確かに彼は言っていないのだけれど、
それでも作ったものに「こんなん」という評価をつけられたことは、少なからず悲しかった。
それから私は家を出て、近所のコンビニへ向かった。
いつもは車で通るだけの、夜の真っ暗な道は、なんとなく怖かった。
コンビニについて、ホットミルクを飲んで、携帯を触ると、充電があと数パーセントしかないことに気がついた。
一緒に観ようと約束していた映画はあと10分程で始まってしまう。
迷ったけれど、彼に「迎えにきてほしい」と頼んだ。今日中に、できれば、映画が始まる前に、仲直りをしたかった。
でも連絡は返ってこなかった。
もうすぐ携帯の充電も切れてしまう。
電話をかけても出てくれないので、実家に電話をかけて、迎えにきてもらった。
実家に電話をした後、充電が切れてしまったので、彼からの連絡も来たか来てないのか、分からなかった。
ただ、駐車場に彼の車が入らないかだけを気にしていた。
駐車場にやってきたのは、実家の母の車だった。
彼は来なくて、少し心配になったので、彼の様子を見に行った。
家に入ると彼はぐっすり眠っていた。
横では、一緒に観たかったテレビが流れていた。
安堵したのとともに、ふつふつ怒りがきた。
夕飯のカレーの残りだけ、鍋ごと冷蔵庫に突っ込んで、再び家を出た。
実家に戻る途中で、「私 何やってるんだろう」と涙が出そうだった。
考えていた、カレーを使った朝ごはんも、職場であった嬉しいことも話せず、久々に一人で夜を迎えた。
そろそろ連絡をくれないと、すべて消費できずじまいになってしまいそうだ。