ななぶんのいち

つよく 素直に生きたい。

カレンダー

トイレに貼り直した、月の満ち欠けカレンダー2020を見ると、ふと思い出す。

 

 

 

 

友達のプレゼント選びをするのが好き。

 

友達の好きなものはどれか、どのデザインが一番似合うか、今欲しいものはあるのか、

 

考えているだけでわくわくするし、寝ずに何時間でも調べていられる。

 

調べた中で、"これ欲しい"と私自身も思ったものがあった。好き香りをカスタマイズできるフレグランス。(カタログギフトのような感じのシステムだった)

 

香りのするものをプレゼントするのは結構勇気がいる。

 

好みかどうかもあるし、以前好きだった香りも時間が経つと好きじゃなくなったりする。

 

なので、自分の好きな香りを選べるのは、とても魅力的なことに思えた。

 

 

 

それからもネットで色々調べたけれど、結局そのフレグランスを買うことにした。

 

店舗に行くと、目当て以外にもいろんなものが置いてある。

 

オーガニックのコスメ、綺麗なパッケージの数々。清楚なお姉さんがちらほら、商品を整理している。

 

店内を何周かして"この店舗にあのフレグランスは無いのかも"と焦る中、隅っこの小さなコーナーに見慣れたパッケージが見えた。

 

ネットで見て欲しいと思った、あのフレグランスだった。

木のアクセサリー立てみたいなのに、ぶらさがっていた。

 

嬉々としてレジへ向かい、会計、ラッピングをお願いする。

 

 

 

レジを打っている同年代のお姉さんは、新人なのだろうか。

柔らかい雰囲気の方だった。

手つきがまだ少し、たどたどしい感じがする。

 

丁寧にラッピングの資材見本を見せてくれる。

 

その丁寧さもなんだか嬉しくて、関係ない話をしたくなってしまう。

 

"これネットで見て、すごく欲しかったんです"

"自分用にも欲しいくらい"

"え、ここのラッピングすごくかわいいですね!"

 

ふとレジ後ろに、

濃紺のA4サイズの厚紙が見えて、

ところどころ金色に光っている。

宇宙や月のデザインみたいだ。

 

"後ろのそれ、宇宙柄ですか?"

 

会話のひとつとして、訊ねる。

あと私は単純に、星や宇宙が好きだった。

 

どうやら、5000円以上購入すると貰える来年のカレンダーらしい。

フレグランスだけでは、少し足りなかった。

 

どうされますか?と聞かれたけれど、

カレンダーのために何か買うには、もったいないように思えて、

他には特に買わない旨を伝える。

 

すごくタイプなデザインだったので、結構迷った。

 

 

 

「お包みするので、店内で少々お待ち下さい」

 

店内はもう何周かしていたが、レジ付近のコーナーの一角を見て待つ。

 

レジをしてくれたお姉さんは、上司のようなお姉さんに何か尋ねている。

 

ラッピングの仕方等だろうか。

早く綺麗に包むのって、きっとすごく難しいんだろうなと思う。

 

しばらくして、包み終わったことを告げられレジに向かう。

 

 

 

「このようにお包みしましたが、いかがですか」

 

有料のラッピングは、お姉さんの手によってより可愛くなっていた。

 

ありがとうございますと伝えると、

 

「よろしければ、こちらも」 

 

レジの後ろにあった、濃紺のカレンダーだった。

 

「通常はお渡しできないんですが、大丈夫とのことでしたので」

 

 

私がこんなことを言うのも何だけれど、

一枚のノベルティの為に、わざわざ上司に了承を得てくれたのか、と思った。

この人の為に、って純粋に行動できるのは、初心を忘れずに働いているからだろう。

 

なんて素敵なことをしていただけたのだろうと思った。

 

たった一枚のA4サイズの厚紙だけど、

プレゼントと同じくらい、嬉しかった。

 

 

 

 

寝室に貼っていたカレンダーは先日 剥がれ落ちてしまったが、

マスキングテープをしなおしてトイレに貼った。

 

もらったノベルティは、普段そんなに大事じゃない。

 

でもそのカレンダーは特別な気がした。

 

トイレに入ってすぐ、私と同じ目線にあるカレンダー。

今日もキラキラしてた。

 

 

福岡旅行

 

 

とても幅の広い歩道の上に、簡易的な屋台が所々散らばっていた。

横断歩道から横断歩道までの間に4〜5軒ほどだろうか。

反対車線に目をやると、そこにも同じくらい屋台が並んでいる。

人密度の少ないお祭りのようだ、と私は思った。

屋台の軒先に灯された明かり、その隙間から溢れ出ている光は、ちょうど濃紺の夜に映えていてまるでイルミネーションのように感じられた。

基本的な赤やオレンジ、黄色。たまに青や緑も見かけたかもしれない。

私たちは、その夜の中を歩いていた。

さっきまで居た屋台では、瓶ビールや梅酒、おでん等をいただき、お腹も膨れてちょうど良い気分になっている。

 


二人の足元はどこか覚束ないようだった。

ゆっくり歩みを進める度、黒いアスファルト上でちらちら輝くカラフルな明かりが、その足元を飾る。

その光は華やかな笑い声と一緒に、夜に沈んだ街を明るくちらちらと照らしていた。

 


自分のことを誰も知らない世界の中、私たちは実に愉快で、そして自由だった。

 

 

 

#旅の記録

#記憶を辿る

#stayhome

からい大根

新しい年が来て、新しい生活が始まった。

 

ごく普通で、当たり前のように感じるけど、

一昨年のクリスマス頃には鬱を患い、会社を辞め、

私にはこの人しかいないと思っていた人と別れ、

生きてる意味ないんじゃないかって思った時もあった。

それから約1年が経って、環境は大きく変わってきている。

 

 

新しく働き始めた場所は、あと10回程の勤務で一旦お休みになる。

大好きだと思う場所だし、いい人たちばかりだけれど、同じことの繰り返しのように感じて、

最近は少し怠く感じてしまう。

ただ、昨日は仲の良い(と思っている)人からメッセージカードをもらった。

「一緒にシフトに入ると癒される、絶対にまた戻ってきてね」

といったような内容だった。

そんな言葉をもらえたことが、素直にとても嬉しくて、何回か小さく跳ねた。

 

手書きの字は、なんだか特別な感じがして、私は手書きで書かれたメモ書きや走り書き、学生の頃の授業中の手紙なんかもすべて捨てられずに取ってしまっている。

それは、その人が自分に割いてくれた時間であったり、その字からも、なんだかその人の温かさとかを感じることができるなあと思ってしまっているから。

どんなに小さなことでも、走り書きでも、私はその字と時間が限りなく愛おしく思う。

 

シフトの休憩仲の短い時間を使って、自分を思って書いてくれたことが、本当どうしようもなく嬉しかった。

更に言うなら、その人が書く

しっかりして角ばったところもあるけれど、それでいて柔らかい文字も、その人らしくて とても好きだった。

自分のことを、見てくれていて、言葉で伝えてくれることがどれだけ幸せかを感じた。

前の職場では味わったことのない経験だった。

 

 

 

家に帰ってからも、嬉しい気持ちは続いていた。

彼にもおいしい料理を食べて嬉しい気持ちになって欲しい、と思い、疲れていたけれど、不慣れな料理を懸命に取り組んだ。

彼が帰ってきて、テレビの前で仮眠をしている間に、料理がやっと完成した。

なんとか起きてもらい、一緒にゴールデンタイムのテレビを観ながら夕食を食べる時間が、何にも代え難く、幸せだと感じた。

 

「なにこれ、辛」

彼が話したのは、流れていたテレビの感想ではなく、大根の千切りのサラダの味だった。

私も同じものを食べていたが、そこまで辛いと感じなかった。

「こんなの食べれない」

そう言って、一口か二口食べただけの大根は、彼の手によって食卓の隅に避けられた。

心なしか、黒い皿に入ったみずみずしい大根も、しょんぼりして見えた。

 

 

 

私は、「食べ物を残してはいけない」ということを母からよく言われていた。

残したら残したで、◯◯も悲しんでいるよ、と言われた。

出してくれたものは、残しちゃいけないんだ、と思ったし、

大人になった今でも、なるべく残さないように食べるのが習慣づいている。

◯◯ "も" というのは、きっと作り手である母も悲しかったのだろう。

 

彼の実家では、たくさんの料理が出てきて、食べきれないなら残す、が主流だったようだ。

お腹がいっぱいになるように、と多めの量で作ってくれることに、愛情を感じる。

けれど、私は残してしまうことにやはり罪悪感を感じてしまう。

 

 

 

よく考えれば(考えなくても)、それは大根のせいだし、私が悪いとは確かに彼は言っていないのだけれど、

それでも作ったものに「こんなん」という評価をつけられたことは、少なからず悲しかった。

 

それから私は家を出て、近所のコンビニへ向かった。

いつもは車で通るだけの、夜の真っ暗な道は、なんとなく怖かった。

コンビニについて、ホットミルクを飲んで、携帯を触ると、充電があと数パーセントしかないことに気がついた。

一緒に観ようと約束していた映画はあと10分程で始まってしまう。

迷ったけれど、彼に「迎えにきてほしい」と頼んだ。今日中に、できれば、映画が始まる前に、仲直りをしたかった。

でも連絡は返ってこなかった。

もうすぐ携帯の充電も切れてしまう。

電話をかけても出てくれないので、実家に電話をかけて、迎えにきてもらった。

実家に電話をした後、充電が切れてしまったので、彼からの連絡も来たか来てないのか、分からなかった。

ただ、駐車場に彼の車が入らないかだけを気にしていた。

 

駐車場にやってきたのは、実家の母の車だった。

彼は来なくて、少し心配になったので、彼の様子を見に行った。

家に入ると彼はぐっすり眠っていた。

横では、一緒に観たかったテレビが流れていた。

安堵したのとともに、ふつふつ怒りがきた。

夕飯のカレーの残りだけ、鍋ごと冷蔵庫に突っ込んで、再び家を出た。

実家に戻る途中で、「私 何やってるんだろう」と涙が出そうだった。

 

 

 

考えていた、カレーを使った朝ごはんも、職場であった嬉しいことも話せず、久々に一人で夜を迎えた。

そろそろ連絡をくれないと、すべて消費できずじまいになってしまいそうだ。

この季節に思うこと

お休みの日の午後に、この文を書いている。

 

リビングのソファに、どっしりと腰を下ろして、

行儀悪く、机の上に足を投げ出している。

網戸の外からは、無数の鳥の高い鳴き声が聴こえて、

時々 車やバイクの通る音がする。

それ以外はこの部屋になんの音もない。

スマートフォンもサイレントにしてある。

 

秋晴れが続いていたが、今日は午後から空が真っ白だった。

寒暖差で、木々の葉が、黄色やオレンジ、赤、茶色に徐々に染まっていくのを見ると、この季節が好きだなと、ふと思う。

 

 

 

 

今月、誕生日を迎える私は、この季節が特に好きだ。

無条件に、知り合いや友人、恋人から、愛されているのだと知ることが出来る日。

こちらが何か言わなくても、祝福の言葉をかけてくれる。

一人の夜はいつも寂しくて、時々情緒が安定せずに苦しくなる日もあるけれど、この日ばかりは なんだか幸福な気持ちで眠りにつくことができる。

 

でも、誕生日を祝ってもらうことが幸せだと、いつまで感じられるのだろうか。

祝ってくれている友人も、家庭を持つようになったり、仕事に忙殺されるような時期が迫っている。

お互いに、年々忙しくなっていくだろう。

そうしたら、誕生日もいつか忘れてしまうものなのだろうか。

私もいつか、忘れてしまうのだろうか。

そうして、この先どんどん生きていって、

「もうお祝いしてもらうような歳じゃないから」

と照れたような、苦笑いをする時が来るのだろうか。

 

 

誕生日を祝ってもらうことはもちろん、お祝いすることも好きだ。

どんなに歳を重ねても、大切な人の誕生日には

「おめでとう」

を伝えたいと思う。

歳を取れば取るほど、直接、目を見て伝えていきたい。

私自身も、そうやって大切に思ってもらえるような、大人になっていきたいと思う。

 

 

 

国が違うが、フランスでは逆に、

自分の誕生日に、周りの人に感謝を伝えたり、プレゼントを贈ったりするのだと言う。

いつだったか、PSPのゲームをしていた時に覚えたことだ。(おそらく、中学生か高校生の頃だったと思う)

 

私は、

「祝ってもらいたい」

ばかりではなく、

「今の自分がいるのは、あなたたちのおかげ」

と感謝の気持ちを伝える、

このことを忘れずに、心の中にずっと覚えておくつもりでいる。

 

 

 

社会の歯車

苦しかった頃の話。

 

私はまだ、新入社員で入社2年目。

夏から秋にかけての涼しくなる頃だっだと思う。

 

運良く、私は入社してすぐに仕事をふってもらえる環境に在った。

高校生の時からずっと夢見ていた仕事で、

最初こそドキドキして、なんとしても完璧にやろうと意気込んでいた。

誰よりも早いデビューを喜んだし、もっと成長していけると思っていた。

 

ただ、どんどんと私の仕事量は多くなっていった。

「私があなたくらいの頃、今のあなたの倍は仕事してた」

上司の口癖だった。

それならば、と頑張った。要領が悪いし、もういっぱいいっぱいだけど、それに気づかれまいと、もっともっと頑張った。

 

気がつくと、あんなに憧れていた職業は、ただのこなし作業のようになっていた。

仕事をしてもしても終わりが見えず、

"お客様の事を想って"

と時間を掛けようとするも、仕事が多ければ多いほど それは叶わなくなっていった。

(残業しない主義の上司だったので、半ば強制的に仕事を切り上げていた)

 

 

 

そんな中、とんでもない失敗をしてしまった時があった。

私の責任、と思っているが、正しくは違うのかもしれない。

 

発注させてもらっていた業者の方の、確認ミスがあった。

それはもう取り返しのつかないミスだった。

発注はいつも通りに出来ていたらしい。

 

お客様は、それはもうすごく悲しんでいて、悲しみを通り越して、無の感情に近かったかもしれない。あんなに楽しみにしてくれていたのに、台無しにしてしまった。

責任者である私は、死ぬ思いで謝った。謝っても謝っても、足りないと分かっていたけど、それでも謝った。死んで詫びる、と言う言葉があるけれど、それで許してもらえるならそうしたかった。

世界が真っ暗になったようだった。

お客様のその時の気持ちを考えると、もういっそ死にたかった。

 

その帰り道も、それから数十日も、苦しい気持ちで胸がいっぱいだった。

自分が楽しい事をしている時、「こうしている間も、あのお客様は悲しんでいるのではないか」と思って、何をしても気が晴れることはなかった。

 

一方、ミスをした当の本人は、当日 姿を現すことはなく、それから数日後、何事もなかったかのようにヒョッと会社に訪れた。

「先日はすみませんでしたあ」

と生ぬるい声と笑顔で、上司に謝っていた。

上司は「担当はこちらなんで」と私を指す以外、何も話さなかった。

再度 同じように頭を下げられても、担当だとは言っても、一番下っ端の私は、黙ることしかできなかった。

 

「その態度なんなんだ」「謝ってるつもりなのか」

「取り返しのつかないことをしたって分かってるのか」

「大切なお客様だったんだ」

「当日、何があっても、這ってでも謝りにこいよ」

「どれだけ悲しかったのかお前に分かるか」

 

言いたいことは、山ほどあった。

全部ぶつけてやりたかった。それでもお客様の想いは晴れないけれど。

ただ、これからも関わりがある業者さんだから、こんな私の不用意な言葉で、何かあったら。

そう思うと、言えなかった。

第一、上司は何も言っていなかった。

その中で私が、言えるはずがなかった。

 

死ぬほど悔しくて、悔しくて、しょうがなかった。

自分のミスとは言え、もう責任取ってクビでいいとも思った。

 

何も言えなかったことを上司のせいにする私も、実際に何も言えなかった私も、その時 全てが醜かった。

 

 

こうして、苦しくて堪らない時期をはじめ、いろいろ積み重なって、結局 私はうつになっていた。

会社の上司とは、みんなこういうものなんでしょうか。

私が何も考えずに、言いたいことを言っていたら、何か変わったのでしょうか。

 

今更考えても、何もならないけれど、今度は強くなりたいと思う。

"守りたいものの為に"、それだけを考えて、強くなっていきたいと思う。

 

笑顔中毒

幼稚園の時に、同じ県内だが数十キロ離れた土地に引越しをした。必然的に通っていた幼稚園も転園することになった。

 

最初 通っていた幼稚園の頃の記憶はもうほとんどないのだけど、友達もまあまあ居て、先生とも仲良くできていて、大きな声で挨拶が出来る子どもだった(後から聞いた話によると)。私が覚えているのは、好きな男の子が二人居たなあ、くらい。平和な幼稚園生活だったと思う。

そんな私を見て両親は、引っ越しと転園をするけれども まあそこまで心配もいらないだろうと思っていたらしい。

 

ただ、思ってもみなかったけれど、私は人見知りだった。

考えてみると、4歳〜5歳くらいはちょうど物心がつき始める年頃かなと思う。転園してからの幼稚園生活の始めが、少し苦しかったことを今でもまだ覚えている。

友達が出来ずに、先生とずっと教務室で話していたこと。

周りの子に"遊びに入れて"と言ったら、"やだ"と言われたこと。

お道具ばこやハーモニカの色がみんなと違っていたこと。

中でも一番は、「薬指について」。

幼稚園の外の砂場に居ると、先生が

「この指は何指でしょう」

と問題を出してきた。先生は薬指を指していた。

一生懸命考えても答えが出てこなくて、

「ファの指」

と答えた。ピアノを習い始めてすぐの頃だった。ドレミファのファを弾く指だった。

そうしたら先生と、周りにいた子たちは笑っていた。明らかに、私の答えが違うことを笑われているのだと思った。

その時に、うまくは言えないけれど悲しくて悔しい気持ちになった。

今思い返せばあれが、人から笑われるのだけは嫌だ、と思った瞬間だった。

あの瞬間が、20年ほど経った今でも記憶にこびりついている。

 

...

 

なんとか幼稚園で友達も出来て、無事卒園し、小学校へ通い始めた一年生の頃。

おてんば、という言葉が似合う友達がいた。慌ただしいのだが、いつも賑やかで、居ると周りが明るくなるように思えた。当然、クラスの人気者だった。何故友達になったのかは覚えていないが、その子とは同じクラスで仲良くしていた。

ただ、普通に過ごしているだけなのに、なんでこんなに人から好かれるのだろう、と思っていた。友達が多いことに嫉妬もしたし、私も何とかして友達を増やしたいと思っていた。

なのでその友達を観察していた。何故、人気者なのか。そうしたら分かったことが「常に笑顔」だということだった。話す時はもちろん、嫌なことを言われても笑顔で「ちょっと〜!」などと言ってかわしていた。人から笑われることがとても嫌で、すぐ顔や態度に出てしまう私にとっては、それがすごい事に思えた。

そうして私は、ずっと笑顔でいることを心がけて過ごすようになった。人見知りも封じ込めるようにした。これで、友達も増えるし誰からも好かれるようになると思った。

これが、笑顔中毒の始まりだったかもしれない。

 

...

 

確実にあった、とは言えないが、私が感じたのはイジメだった。小学三年生の頃。当時 仲良しだった子からも無視されたり、グループから仲間はずれにされたことがあった。そのクラスの中でも、話してくれるたった二人の友達が救いだった。

その時、ただニコニコしているだけでは駄目だったんだ、と思った。そして、もう絶対にいじめられる側にはいかない、とも。

その為にも、敵を作らずに、助けてくれる仲間をもっと増やさなきゃ、という思いに駆られていた。

 

小学四年生の頃からは、「笑顔」は「いざという時に助けてくれる仲間を増やす」為の道具になっていた。

五年生の時に、プロフィールの特技の欄に「愛想笑い」と自信満々に書いたことを思い出す。友達が徐々に増えていったので、上手く立ち回れていると思い、自意識過剰になっていたのだ。

より上手く人間関係の中をスイスイ泳ぐ事に、勉強より何より熱が入った。中学校を卒業する頃には、同学年で話したことがない人がいないくらい、コミュニケーションお化けになっていた。

 

...

 

専門学校を出て、初めて就職した会社ではお化けが高じて接客をさせてもらっていたけれど、完璧にこなそうとして結果 鬱を拗らせてしまった。

上司に怒られても、挽回して笑顔で頑張ろう!とか、お客様には最高の笑顔で!とか、厚かましいけれど本当にそう思っていた。電話応対も打ち合わせも100点のコミュニケーションを目指した。

ただ、自分が思っていたより仕事は出来ず、効率も悪かった。毎日何かと上司に怒られていた。それでもめげずに次の日には必ず笑顔で「おはようございます!」を言った。自分を守る為の笑顔だけど、そこに感情は無く、ただ貼り付いているような感じで息苦しかった。

笑顔、笑顔、と心でずっと唱えていたが、ある日ついに涙が止まらなくなって急遽 辞めることとなった。完璧を目指していた私には、喝を入れる為の上司の言葉はあまりにもダメージが大きかった。そして、それを最後までどこにも吐き出せずにいた。

職場のスタッフ間やお客様に対しても、完璧な100点満点のコミュニケーションはほぼ不可能だということを、社会人三年目になる頃  私は初めて知った。

 

自分を守る為の防具も無くなってしまい、無感情で丸腰で、なんとも生きてる心地はしなかった鬱だが、なって良かったと思えるのは、私を一旦リセット出来たから。

私が笑顔じゃなくても支えてくれる人や、好きなままでいてくれる人が居てくれて、私をまるまる受け入れてくれるようで、本当に心が救われた。

 

...

 

"笑顔"にずっと捕らわれて、中毒のようになっていた。

人が笑顔で居てくれる為には、私自身ずっとずっと笑顔で居なくては。悲しくても辛くても何があっても笑顔で乗り越えていかなくては。

本当はたぶん、苦しかった。

楽しくない時は笑わなくていいし、悲しく辛い時にも笑わなくていいんだって、一年前 鬱になった時 知った。

その分、楽しい時にはお腹を抱えて笑いたいし、辛い時には涙をだーだーに流したい。

 

 

と、理想を書いたけれど、実のところ、まだ"中毒"が完全に抜けたわけではない。

現在、鬱から社会復帰して、また接客業をし、また毎日笑顔で働いている。また同じこと繰り返すぞ、と言われそうだけど、私がやりたいことはこれしかなかった。接客が好きなのか、接客をしている自分が好きなのかは正直分からない。

基本 接客業は笑顔のお仕事だと思う。調子が良い時は普通に にこやかになれるのだが、やはりどうしても疲れたり、しんどくなると、笑顔を貼り付けなければならない。でも貼り付ける事がないよう、心からの笑顔を心がける。

どうしてそこまでして、と思うかもしれないけれど、今までを通して思っている信念があるからだろう。

"笑顔は人を幸せにすると思うし、自分も幸せにしてもらえる"、と私は今でも思ってしまっているのだ。自分の疲れ どうこうよりも目の前のお客様やスタッフに"笑顔になってほしい"という気持ちの方が大きい。

鬱になった頃と ただ一つ違うことは、数少ない大切な人たちが無条件に側に居てくれること。

無理のない程度で、上手くこの中毒と付き合っていきたい。

 

 

 

夏の海

泣くために海に来た。

何にもやる気が起きず、家にも居るのが嫌で、何ヶ月かぶりの運転で海に来ている。

苦しい気持ちと一人でゆっくり向き合おうと思った。

 

 

以前大好きだったアパレルの彼氏(すごく好きだった)と別れた時にもここに来た。

車を止めて、彼から貰った手紙を読みながら一人でひとしきり泣いた。

手紙は、ラブラブだった頃に貰ったもので、

「隣でイビキかいて寝てるけど、本当にいつも大好きやでっ!」

みたいな内容だったと思う。

ノートの端をハサミで切ったみたいな簡易的な手紙だったけれど、嬉しすぎて財布の中にしまっていたんだった。

 

もう半年以上前のことになる。

あの頃の季節は冬で、周りに車は無くて、私は一人でわんわん泣けた。

 

 

 

 

 

夏序盤となり、海に泣きに来たけれど、なんでこんなに陽気な音楽がスピーカーから流れているのだろう。

19時30分過ぎ、人が多い。

夏の海は恋人や家族の楽しむ場所となるんだと初めて今日知った。

気分と真逆の景色と音楽の中、どうしたら良いのか分からずに呆然としているのが、私だ。

 

 

 

人の事を好きになりたい。信じたい。と思っている。

ただ 信じる事は難しくて、

「会いたい」「大好き」「信じて」

「愛してる」

何度言われて信じてみても、今日みたいな日が来る。

苦しくて、一人ぼっちな日。

結局、愛されていないのだと知る。

何故か今ちょうど雨が降り出して、車のフロントガラスを濡らしていく。

 

このまま、砂浜や階段に腰掛けるカップルにももっと降り注げばいいと思う。

早く皆んな帰って、私を泣かせてくれ。

 

 

 

本当は、都合のいい関係で、ちょうどよかったのかも知れない。

愛になんてならなくてもよかったのかも知れない。

 

 

 

「会いたい」と連絡が来ないか待ってしまう自分に嫌気がさす。

電源を切って、ボーッとしたまま、このまま帰ろうと思う。

あともう少しだけ、この陽気な音楽を聴いてから。