ななぶんのいち

つよく 素直に生きたい。

笑顔中毒

幼稚園の時に、同じ県内だが数十キロ離れた土地に引越しをした。必然的に通っていた幼稚園も転園することになった。

 

最初 通っていた幼稚園の頃の記憶はもうほとんどないのだけど、友達もまあまあ居て、先生とも仲良くできていて、大きな声で挨拶が出来る子どもだった(後から聞いた話によると)。私が覚えているのは、好きな男の子が二人居たなあ、くらい。平和な幼稚園生活だったと思う。

そんな私を見て両親は、引っ越しと転園をするけれども まあそこまで心配もいらないだろうと思っていたらしい。

 

ただ、思ってもみなかったけれど、私は人見知りだった。

考えてみると、4歳〜5歳くらいはちょうど物心がつき始める年頃かなと思う。転園してからの幼稚園生活の始めが、少し苦しかったことを今でもまだ覚えている。

友達が出来ずに、先生とずっと教務室で話していたこと。

周りの子に"遊びに入れて"と言ったら、"やだ"と言われたこと。

お道具ばこやハーモニカの色がみんなと違っていたこと。

中でも一番は、「薬指について」。

幼稚園の外の砂場に居ると、先生が

「この指は何指でしょう」

と問題を出してきた。先生は薬指を指していた。

一生懸命考えても答えが出てこなくて、

「ファの指」

と答えた。ピアノを習い始めてすぐの頃だった。ドレミファのファを弾く指だった。

そうしたら先生と、周りにいた子たちは笑っていた。明らかに、私の答えが違うことを笑われているのだと思った。

その時に、うまくは言えないけれど悲しくて悔しい気持ちになった。

今思い返せばあれが、人から笑われるのだけは嫌だ、と思った瞬間だった。

あの瞬間が、20年ほど経った今でも記憶にこびりついている。

 

...

 

なんとか幼稚園で友達も出来て、無事卒園し、小学校へ通い始めた一年生の頃。

おてんば、という言葉が似合う友達がいた。慌ただしいのだが、いつも賑やかで、居ると周りが明るくなるように思えた。当然、クラスの人気者だった。何故友達になったのかは覚えていないが、その子とは同じクラスで仲良くしていた。

ただ、普通に過ごしているだけなのに、なんでこんなに人から好かれるのだろう、と思っていた。友達が多いことに嫉妬もしたし、私も何とかして友達を増やしたいと思っていた。

なのでその友達を観察していた。何故、人気者なのか。そうしたら分かったことが「常に笑顔」だということだった。話す時はもちろん、嫌なことを言われても笑顔で「ちょっと〜!」などと言ってかわしていた。人から笑われることがとても嫌で、すぐ顔や態度に出てしまう私にとっては、それがすごい事に思えた。

そうして私は、ずっと笑顔でいることを心がけて過ごすようになった。人見知りも封じ込めるようにした。これで、友達も増えるし誰からも好かれるようになると思った。

これが、笑顔中毒の始まりだったかもしれない。

 

...

 

確実にあった、とは言えないが、私が感じたのはイジメだった。小学三年生の頃。当時 仲良しだった子からも無視されたり、グループから仲間はずれにされたことがあった。そのクラスの中でも、話してくれるたった二人の友達が救いだった。

その時、ただニコニコしているだけでは駄目だったんだ、と思った。そして、もう絶対にいじめられる側にはいかない、とも。

その為にも、敵を作らずに、助けてくれる仲間をもっと増やさなきゃ、という思いに駆られていた。

 

小学四年生の頃からは、「笑顔」は「いざという時に助けてくれる仲間を増やす」為の道具になっていた。

五年生の時に、プロフィールの特技の欄に「愛想笑い」と自信満々に書いたことを思い出す。友達が徐々に増えていったので、上手く立ち回れていると思い、自意識過剰になっていたのだ。

より上手く人間関係の中をスイスイ泳ぐ事に、勉強より何より熱が入った。中学校を卒業する頃には、同学年で話したことがない人がいないくらい、コミュニケーションお化けになっていた。

 

...

 

専門学校を出て、初めて就職した会社ではお化けが高じて接客をさせてもらっていたけれど、完璧にこなそうとして結果 鬱を拗らせてしまった。

上司に怒られても、挽回して笑顔で頑張ろう!とか、お客様には最高の笑顔で!とか、厚かましいけれど本当にそう思っていた。電話応対も打ち合わせも100点のコミュニケーションを目指した。

ただ、自分が思っていたより仕事は出来ず、効率も悪かった。毎日何かと上司に怒られていた。それでもめげずに次の日には必ず笑顔で「おはようございます!」を言った。自分を守る為の笑顔だけど、そこに感情は無く、ただ貼り付いているような感じで息苦しかった。

笑顔、笑顔、と心でずっと唱えていたが、ある日ついに涙が止まらなくなって急遽 辞めることとなった。完璧を目指していた私には、喝を入れる為の上司の言葉はあまりにもダメージが大きかった。そして、それを最後までどこにも吐き出せずにいた。

職場のスタッフ間やお客様に対しても、完璧な100点満点のコミュニケーションはほぼ不可能だということを、社会人三年目になる頃  私は初めて知った。

 

自分を守る為の防具も無くなってしまい、無感情で丸腰で、なんとも生きてる心地はしなかった鬱だが、なって良かったと思えるのは、私を一旦リセット出来たから。

私が笑顔じゃなくても支えてくれる人や、好きなままでいてくれる人が居てくれて、私をまるまる受け入れてくれるようで、本当に心が救われた。

 

...

 

"笑顔"にずっと捕らわれて、中毒のようになっていた。

人が笑顔で居てくれる為には、私自身ずっとずっと笑顔で居なくては。悲しくても辛くても何があっても笑顔で乗り越えていかなくては。

本当はたぶん、苦しかった。

楽しくない時は笑わなくていいし、悲しく辛い時にも笑わなくていいんだって、一年前 鬱になった時 知った。

その分、楽しい時にはお腹を抱えて笑いたいし、辛い時には涙をだーだーに流したい。

 

 

と、理想を書いたけれど、実のところ、まだ"中毒"が完全に抜けたわけではない。

現在、鬱から社会復帰して、また接客業をし、また毎日笑顔で働いている。また同じこと繰り返すぞ、と言われそうだけど、私がやりたいことはこれしかなかった。接客が好きなのか、接客をしている自分が好きなのかは正直分からない。

基本 接客業は笑顔のお仕事だと思う。調子が良い時は普通に にこやかになれるのだが、やはりどうしても疲れたり、しんどくなると、笑顔を貼り付けなければならない。でも貼り付ける事がないよう、心からの笑顔を心がける。

どうしてそこまでして、と思うかもしれないけれど、今までを通して思っている信念があるからだろう。

"笑顔は人を幸せにすると思うし、自分も幸せにしてもらえる"、と私は今でも思ってしまっているのだ。自分の疲れ どうこうよりも目の前のお客様やスタッフに"笑顔になってほしい"という気持ちの方が大きい。

鬱になった頃と ただ一つ違うことは、数少ない大切な人たちが無条件に側に居てくれること。

無理のない程度で、上手くこの中毒と付き合っていきたい。